「手塚のプライドは金じゃない。連載の本数なんですよ」週刊少年サンデー「手塚治虫専属計画」はなぜ失敗に終わったのか? から続く

「とにかく、初期のジャンプは絵が汚かった。言い方は悪いけど、ブルーカラーの読むマンガだと」――創刊当初はライバル誌の編集者から“格下扱い”だった「少年ジャンプ」。

 そんなジャンプが最盛期には600万部を超える「日本最強のマンガ誌」に成長できた理由とは? ライターの伊藤和弘氏による新刊『「週刊少年マガジン」はどのようにマンガの歴史を築き上げてきたのか? 1959ー2009』より一部抜粋してお届けする。(全3回の2回目/#1#3を読む)

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なぜ「友情・努力・勝利」を重視したのか?

 1968(昭和43)年、月2回刊で始まった「少年ジャンプ」の創刊号はわずか10万5000部しか出なかった。令和の現代なら決して少なくない部数だが、その9年前の「サンデー創刊号が30万部、「マガジン創刊号が20万5000部だったことを思えば、実にひっそりとスタートしたことがわかる。

 当時、活字の記事がない「マンガ専門誌」というのは斬新だったが、多忙な大物作家を押さえることができず、肝心のマンガも新人のものばかり。それを見た「サンデー」や「マガジン」のスタッフに、あまり危機感はなかったようだ。「サンデー」にいた武居俊樹など、「小汚い雑誌だった」と言い放つ。

「とにかく、初期のジャンプは絵が汚かった。言い方は悪いけど、ブルーカラーの読むマンガだと。サンデーマガジンホワイトカラーマンガだと思ってたからね。相手にしねえやって。カカカカッ

 しかし、武居の言う「小汚い雑誌」は驚異の急成長を見せる。創刊の翌年に週刊化し、わずか4年で「マガジン」を抜き、週刊少年誌のトップに立ったのだ。

「有名な“友情・努力・勝利”というのは前身の『少年ブック』時代に生まれたキーワードなんですよ」

 そう話すのは「少年ジャンプ」第3代編集長を務めた西村繁男。「日の丸」「少年ブック」編集部を経て、創刊から「少年ジャンプ」にたずさわり、編集長を務めた1978(昭和53)年から1986(昭和61)年で部数を200万部から400万部に倍増させた人物だ。取材時には70代も半ばになっていたが、ホテルラウンジで午後2時から平然とスコッチロックを傾ける酒豪ぶりは健在だった。

「何校か都内の小学校にお願いして、5・6年生に『いちばん大切に思うこと』のアンケートを取った。そこから出てきた言葉が“友情・努力・勝利”です。ジャンプ創刊に当たって、はっきりとそれをキーワードにすえました。創刊のテーマのひとつに『少年誌を少年に取り戻そう』というのがありましたから。当時の少年誌は劇画が増えて、読者の年齢層が上がっていたでしょう。そこでメイン読者層を小学校高学年から中学生としたんです」

 大学生になった団塊の世代に読まれていた「マガジン」「サンデー」に対し、はっきりと子どもターゲットにした「ジャンプ」は小中学生に熱烈に支持された。

 苦肉の策だった新人起用も結果的にプラスに働いた。創刊当初、駆け出しだった永井豪と新人の本宮ひろ志がブレイクし、さらに他誌に先がけて「手塚賞」「赤塚賞」という新人賞を始めたことで、従来見られなかった新しい才能が続々と「ジャンプ」に集まるようになっていく。

○○先生の作品が読めるのはジャンプだけ!」

 本宮ひろ志を発掘したのは他ならぬ西村だった。ちょうど「ジャンプ」の創刊準備をしている時期、ボロボロの紙袋に原稿を入れて持ち込みにやって来た。やや意外な気もするが、当時の本宮はちばてつやにあこがれていたという。

キャラクターはちばさんそっくりなんだけど、荒っぽい力のある絵だった。大きく開けた口の中にタテ線を描く。この手法は本宮さんの『男一匹ガキ大将』が元祖です。あの作品は子どもだけじゃなく、本宮さんと同世代である全共闘(団塊)世代の学生にも受けたんですよ。東大の安田講堂が陥落したとき、『ガキ大将』の総集編が何冊も落ちていたそうですから」

○○先生の作品が読めるのはジャンプだけ!」で知られる「マンガ家専属制度」も本宮ひろ志が最初だった。

「自分たちが苦労して育てたマンガ家を持っていかれるのはかなわない、ということで長野(初代編集長)さんが発案したんです。さらに読者に対して“ジャンプでしか読めない”希少価値を売りにする、ということですね。建前の理由としては、1本に集中することでいい作品を描いてもらおうと。本宮さんは最初年間24万円だったけど、そのうちプロ野球選手の契約料くらいにはなりましたよ」

 半世紀前の話だが、それにしても当時の24万円は現代の貨幣価値に換算しても100万円に届かないのではないか。恐ろしいことに初期の頃は「他誌で描かない」と約束させておきながら、必ず作品を載せる保証がなかったという。それはさすがに問題があるということで、2代目の中野祐介編集長の時代に、年間ではなく「執筆中は他で描かない」という契約制度に代わった。

「もっとも連載が終わっても、人気がある作家はすぐに次の連載を決めて更改していくから、結果的には毎年更新していくようなものですけどね」

 しかし、そもそもフリーランスであるマンガ家を他誌で描かせないという契約はおかしい――。そう考える編集者マンガ家も昔から多かった。

「あえて反論はしない。それはジャンプの方針ですから。中には専属制が合わなくて離れていったマンガ家もいます。外に出て成功した人もたくさんいる。小林よしのりさんなんかそうでしょう。『東大一直線』はそれなりにヒットしたけど、外に行ってから描いた『おぼっちゃまくん』の方が力を発揮したと思う。永井豪さんも週刊からは離れたけど、『月刊少年ジャンプ』で長く仕事をしてくれました」

ジャンプの伝統「アンケート至上主義」

「友情・努力・勝利」のキーワードとともに、「ジャンプ」といえば読者の反応を徹底的に重視する「アンケート至上主義」もよく知られる。これも初代編集長・長野規から連綿と受け継がれた“ジャンプの伝統”なのだという。

創刊号からアンケートハガキをとじ込みで入れてあるんです。1冊にとじ込みハガキを入れると経費が1円余分にかかるんですよ。200万部なら200万円。長野さんはそれをかたくなにつらぬいた。要するに、読者が読みたいマンガを載せるんだと。もうひとつは、マンガ家編集者に対する競争原理の導入ですよ。なるべく多くの読者がアンケートに答えるように創刊号から懸賞アンケートにして賞品が当たるようにしています。10週やって人気が出ないものは切る、というのもかなり早い段階から決まっていました」

 人気のない作品は10週で打ち切る半面、人気があれば簡単には終わらせないのもアンケート至上主義の特徴だろう。

 例えば、本宮ひろ志の出世作『男一匹ガキ大将』には、何回か“幻の最終回”がある。

 最初は不良学生の全国制覇をかけた「富士のすそ野」編のクライマックス。敵対する堀田石松が放った竹槍が主人公・戸川万吉の腹に深々と突き刺さる。生原稿ではそこにマジックで荒々しく「完」という文字も書かれていたという。

「担当だった僕がその『完』の字をホワイトで消して無理やり続けさせた。それは事実です。『ガキ大将』の人気は絶大で、ついに『ハレンチ学園』を抜いてトップに立っていた。ここからいかようにもできる展開だし、まだまだ続けられると思いました。まあ、『ハレンチ』のピークも過ぎていて、ここで『ガキ大将』に抜けられたらまずい、という気持ちもありましたけどね……」

 その後、万吉は一命を取り留め、全国の不良学生の頂点に立つことに。「わいのガクラン(学生服)もってこい!」という台詞で大団円を迎え、全7巻の集英社文庫版はここで完結している。

 本宮の自伝『天然まんが家』(集英社文庫)によると、その最終回から数週間後に長野編集長がやって来て「続編を描いてくれ」と頭を下げた。「もう無理です」と固辞する本宮に対して、長野は涙まで流しながら熱く訴えたという。

「本当のガキ大将の戦いは、これからじゃないか。がんばろう、ふたりでがんばろう。『少年マガジン』のシッポをつかんでいるんだ!」

 ときに1971(昭和46)年、「ジャンプ」の部数は急伸していたが、まだ「マガジン」には追いついていなかった。

 やむをえず「考えてみます――」と答えた本宮は、長野が置いていった最新号の「ジャンプ」を見て「あっ、あのジジイーッ!」と絶叫する。見開きを使って、でかでかとこう書かれていたのだ。

「次週いよいよ、『男一匹ガキ大将』第二部堂々再開!!」

DRAGON BALL』の衝撃

 1978(昭和53)年、その本宮ひろ志を発掘した西村繁男が第3代編集長に就任すると、いよいよ「ジャンプ」の勢いは増していく。

 1979年に『キン肉マン』(ゆでたまご)、1980年に『Drスランプ』(鳥山明)や『3年奇面組』(新沢基栄)、1981年に『キャプテン翼』(高橋陽一)、『キャッツ・アイ』(北条司)、『ストップ!!ひばりくん!』(江口寿史)といったヒット作が次々と始まり、発行部数は雑誌史上初となる300万部を突破する。

 80年代前半には“ラブコメサンデー”が部数を伸ばしたが、それにしても「ジャンプ」とは100万部の差があった。1985(昭和60)年に『ふたり鷹』(新谷かおる)、1986年に『タッチ』、1987年に『うる星やつら』、と人気作品の連載終了が重なると「サンデー」の部数は減り始め、再び「マガジン」に逆転を許してしまう。

 しかし発行部数200万部の手前で「マガジン」と「サンデー」が2位争いをしていたとき、そのはるか上空には「ジャンプ」がいたのだ。

 前に触れたように、「サンデー」がラブコメで伸びているとき、「ジャンプ」のスタッフはかなり危機感を持っていたらしい。挙がってくる企画もラブコメばかりになったが、西村自身はラブコメに否定的だった。

「というのも、2匹目のドジョウが1匹目を追い越すことはできないんですよ。当時、『キックオフ』(ちば拓)という作品を載せましたが、あれはラブコメというよりもそのパロディでしょう。その後『北斗の拳』(武論尊・原哲夫)が出た。それで一気にサンデーを引き離しました」

作家の寿命を延ばすか、作品の寿命を延ばすか

 1983(昭和58)年に『北斗の拳』、翌1984年に世界的なヒット作となる『DRAGON BALL』(鳥山明)が始まると、ついに400万部を達成する。

「最終的にジャンプ600万部を超えますが、内容のピークは80年代半ばだったと思います。これはどうにも歯が立たなかった」と、当時は「マガジン」の前編集長になっていた宮原照夫は振り返る。

「僕の方法論は編集者・原作者・マンガ家三位一体で作っていくこと。ところがジャンプは、マンガ家個人の力がとても大きかった。新人の強さとは、今までにない新しい感性ですよ。絵があるマンガの場合、それが小説以上に出てくる。こればかりは編集者が作ろうとしても作れないんです」

 もちろん、編集部の力も無視できないだろう。「ジャンプ」に集まった新しい才能を磨き、開花させたのは編集者たちに他ならない。「マシリト」こと後に「ジャンプ」第6代編集長になる鳥嶋和彦は新人の鳥山明に目をつけ、『Drスランプ』開始まで2年ほど「ボツの嵐」を出し続けて鍛え上げたというのは有名な話だ。

 人気のある作品は終わらせない「ジャンプ」だが、ときには例外もある。西村によると、『Drスランプ』は最後まで人気が落ちなかったという。

「人気が落ちる前に担当の鳥嶋くんが終わらせて『DRAGON BALL』につなげています。作家の寿命を延ばすか、作品の寿命を延ばすか。そこで鳥嶋くんは『Drスランプ』を終わらせるという判断をしたわけです。編集長だった僕はもったいないなと思ったけど、当時は『キン肉マン』『キャプテン翼』『北斗の拳』など、強い作品がたくさんそろっていたからね。大丈夫だろうと思いました」

「マンガは新人でもベテランと戦えるメディアなんですよ」7つのペンネームを使い分ける「超一流マンガ原作者」の正体 へ続く

(伊藤 和弘)

創刊号(写真左。創刊号の復刻版)はわずか10万5000部。ライバルからは格下扱いだった「少年ジャンプ」が最強のマンガ誌に上り詰めた理由とは? ©文春オンライン編集部


(出典 news.nicovideo.jp)


<このニュースへのネットの反応>

実際の作品は友情・才能・勝利な場合が多い模様 どちらかというと努力は作者(の描き続ける事)に当てはまるのでは





80年代からのポップなジャンプしか知らないが、単行本の巻末にある既刊本のラインナップから、かつての汚さ・泥臭さは感じた。フレッシュな才能を発掘し世に送り出した鳥嶋さんは偉大


本宮ひろ志は本人かなりメンタルがくたびれてて、続き描けねえーもう終わりてえ~で無理やり完つけて逃げ出したんだよな。本人の自伝も面白い。マンガ読んだことなかった鳥嶋氏の「ジャンプの男くささ嫌い。鳥山には女主人公描かせよう」でのスランプ大ヒットあれやこれやとか。


さらばわが青春の『少年ジャンプ』 西村 繁男 著 とかも併せて読んでみると面白いぞ。記事中の土下座のシーンも別角度から書かれてたw


チャンピオン「ワイの事が1文字も書かれてないんやが……?」


>2匹目のドジョウが1匹目を追い越すことはできないこれ大事だよね


内容はともかく昔から用紙のゲロみたいな匂いが無理だった。


その一方で、しんがぎん(鬼が来たりて、少年探偵Q)の様にジャンプの犠牲になったマンガ家もいる。


世界一の部数にのし上がった漫画誌でありながら、ジャンプ編集部は常に新規ジャンルの開拓とか新しいことをやらないと怖いって土壌があるそうで  ジャンプでなきゃ普通囲碁漫画なんか始めようと思わんとw  とはいえ80年代のバトル物が未だに柱になっちゃってるのはこれはこれでジャンプらしさなのかもね


そういや小学館の巨大な本社ビルって集英社の小ぶりなビルの隣だったそうで、ジャンプに持ち込みに来た人は一度隣のビルを見れば「なーんだ」と落ち着けるよ、と鳥山明が書いてたなw


初期の・・・って今も小汚いのは変らんだろう。だから売れるんじゃ?


あれ?チャンピオンはどうした??ジャンプはチャンピオンの勢いが落ちてから台頭し今に続くだろ。つーかサンデーマガジンってずっと2番3番手以下なのになんでそんな偉そうなんだか


なお、マガジン・サンデー同様の実在美少女グラビア表紙をやっちまったら、多くの『おともだち』より「3次元など興味ないわ!」とお怒りの声を多数受けて、その後二度とやらなかったお話が好き。